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(上記画像は、長島康夫氏著「19歳の甲子園」より引用)
鳥飼です。
今回は、1956年夏、米子東がベスト4に入ったときのエース・長島康夫投手について書きますね。
この年の大会で「ヒーロー」となり、当時、リアルタイムで見ていた人からは今でも語り継がれている選手です。上の画像は、米子東のメンバーが米子市に凱旋したときのものです。これを見れば、当時、どれだけ盛り上がったかがわかりますね。
~~~ 目次 ~~~
長島康夫投手の経歴を簡単にまとめると・・・
長島さんはもともと北九州の人ですが、お父さんの仕事の都合で幼少期を朝鮮で過ごしました。しかし、やがて終戦。家族で日本に逃げ帰ります。
このとき、お父さんとはぐれてしまいました。また、逃げる途中でお姉さんを亡くしています。
この「逃避行」のいきさつは壮絶を極めるのですが、ここでは割愛します。詳しくは、長嶋康夫さんの著書「19歳の甲子園」をお読みいただけたら、と思います。
「逃避行」の末、山陰・島根県に移り住む。
さて、そんな長島さんは山陰・島根県に住むことになったのですが、その理由は、お父さんを探すためです。朝鮮半島に近い山陰なら、手がかりがあるのではないか、と思ったわけですね。
ニワトリ小屋に住んだり、隣に結核患者が住んでいる部屋に住んだり、と恵まれない環境に一時期は身を置きました。
そういう環境にいながらも、野球に出会い、学業も優秀にこなし、高校に進学することになりました。それが、わが鳥取県の米子東高校というわけです。
米子東高校は、地理的に島根県からの通学も可能です。なので、今でも野球部のメンバーの出身校を見ると、島根県であるケースが時々ありますね。長島康夫さんも、そのような、「島根県からの通いのメンバー」だったわけです。
ともかくも、長島さんは指導者・コーチにも恵まれ、実力をぐんぐん、伸ばしていきました。
2年生の秋、「公式戦に出場できない」と告げられる
そんな中、長島さんが2年生のとき。新チームになったすぐの時期に、部長から「君は年齢問題に引っかかるため、公式戦には出られない」と告げられました。
前回の記事でも書きましたが、長島選手は、戦後の逃避行の影響で、就学が一年、遅れているんです。
実は米子東高校としては、長島さんが入学した時点で、「年齢問題」のことは知っていたようです。ただ、最初からそれを長島選手に告げるのは酷だということで、秘密にしていました。
急に知らされた長島選手は大きなショックを受けました。しかし、すぐに気持ちを切り替えて、練習には参加することにしました。主に打撃投手としてチームに貢献しようと思ったらしいですね。
米子東は、長嶋選手が公式戦に出場できるよう、嘆願書を出し続けていた
で、その約一年後、出られないものと思い込んでいた、3年の地方大会予選の一か月前に、特別措置で出れることが決まったことが告げられたのです。
米子東高校は、何度も「長島選手の公式戦出場を特別措置で認めてほしい」と嘆願書を高野連に出していました。それが実を結んだんですね。
このとき、長島さんは野球のできる喜びでいっぱいになったといいます。一年の公式戦ブランクがあったにもかかわらず地方大会を勝ち抜き、甲子園でもベスト4に入りました。
長島康夫選手の甲子園
長島選手は、2度甲子園に行っています。一度目は、長島選手が一年生のときです。このときは、長島選手は投手ではありません。エースは、後に巨人入りして活躍することになる義原武敏(よしはら・たけとし)投手です。
初戦に勝ち、2回戦で早稲田実業に1-3で負けました。
そして長島選手の名前を有名にしたのは、3年生のときです。本来なら出場できるはずではなかったのですが、特別措置で甲子園に出場できたという話題性があったわけです。
しかも、その「行けるはずがなかった」という理由が、戦後の朝鮮からの逃避行で一年遅れで就学してきたために年齢制限にひっかかったことというのも大きかったようです。やはり、戦後の復興の雰囲気がまだまだ残っている時代(1956年)でしたからね。
しかし、有名になった一番の要因はやはりなんといっても長島選手の快投でしょう。
甲子園での、長島康夫投手の快投
さて、そんな、長嶋康夫投手が19歳の甲子園の様子です。
初戦は、北九州代表の別府鶴見丘高校との対戦でした。米子東は抽選の結果、2回戦からの出場でしたから、別府鶴見丘高校からすると2戦目ということになります。
実は、別府鶴見丘高校は強力打線として注目されていた高校でした。初戦は北関東代表の足利工業を相手に6-2で勝っています。
ちなみに、この時点での米子東は全国的には強豪と認められていなかったようです。事実、当時の新聞記事によると、別府鶴見丘高校の部長はこんな談話を残していたようです。
“米子東と組めば一番楽だ”と言っていた冗談が、本当になってしまった。三番岩本、四番山本が当たっており、必ず打ち勝ってみせる自信はある。
(長島康夫著「19歳の甲子園」より引用)
と。で、試合結果はどうだったかというと、1-0で米子東が勝ちました。長島選手は12奪三振をあげ、与えた安打はわずか2つのみ。三塁も踏ませませんでした。
当時の新聞報道によると、その日の米子市は、ラジオがあるところに人が集まり、この試合に夢中になるあまり店や官庁が休店開業の状態になったようです。1点差を守る戦いですからね。そりゃ、息をのんで見守りますよね。
春夏連覇を狙っていた優勝候補に米子東が完封勝ち!
そして、2戦目。中京商業との対戦です。中京商業は今の中京大中京です。2009年には日本文理(新潟)の9回の追い上げを振り切っての優勝が話題になりましたね。今も昔も強豪です。
当時は今以上に強豪でした。なにせ、同じ年の春には優勝しているわけですから。春夏連覇を狙っていたわけですね。
とりわけ、今でいうところの大阪桐蔭のような高校です。
しかし、なんと米子東はここに勝つんです。しかも完封で。初戦と同じく、投手戦で、どちらも得点が入りませんでした。8回にようやく米子東が3点を入れ、そのまま勝ったわけです。
この試合の最中、長島投手は、
打者一巡のところまで対戦してみて、実感としてそれほど恐れるほどの相手ではない、というのが正直な本音だった。
(長島康夫著「19歳の甲子園」より引用)
と感じたようですから、キモが座っていますね。
長島康夫投手は、年齢の話題性だけでなく、たしかな実力もあった。
長島投手が相手を「恐れるほどではない」と感じたのはハッタリではありません。実際にかなりの好投手だったのです。変化球が得意で、特にドロップと内角をえぐるシュートは相手をかなり困惑させたようです。
長島選手は優勝候補の中京商業に勝ち、地元だけでなく全国的に有名になりました。もちろん、僕はこの頃は生まれていませんから、当時のことはよくわかりません。でも、野球好きの大人に囲まれて育っているので、長島選手の伝説はよく聞きます。
それは、鳥取県内の人だけでなく、県外の人でも長島ファンに出会ったことがあります。野球で「ナガシマ」といえば普通は長嶋茂雄さんのことを連想します。しかし、この人にとっては、米子東の長島こそが、「ナガシマ」なんだそうです。
(ちなみに長嶋茂雄さんは長島康夫さんは世代もほぼ同じで、米子東のナガシマの方がひとつ下です)
なお、当時の新聞の記事は、この日の長島投手の投球を以下のように報じています。
前人未踏の春夏連覇を狙う中京が山陰の伏兵、米子東の果敢な攻撃に屈し、ついにジンクスは破れなかった。殊勲の筆頭は名にしおう中京の打線を5安打散発に完封した長島で「中京には3-2で勝つつもりでしたよ」と流れる汗を拭いながら語る長島の辞書にはおよそ”強敵”とか”優勝候補”という言葉はなさそうだ。
「昨日中止になったので、幸いゆっくり休養出来ました。しかし改めて相手を研究し直すというようなことはしませんでした」という言葉が現すように、その試合にのぞむ態度は恬淡そのもの。それでいて「星山、松原、ことに足のある松原を警戒した」そうだから細心の注意も怠らなかったわけだ。
この長島のピッチングには敗れた中京滝野部長も「コントロールといい、プレート度胸といい、全く申し分ない好投手だ」と絶賛を惜しまず、強打の星山も「あのドロップにはどうも手が出ない」とクビをかしげていた。
ことほど左様にこの日の長島は得意のドロップを思うままに駆使して投げぬいた。審判の判定にいちいち顔色を変えていた中京の安井と好対照で終始ニコニコ。定評のある機動作戦を封じ去った。
(長島康夫著「19歳の甲子園」より引用)
長島さんによると、ニコニコしていたのは、出場できないと思っていたのに、出場できていること自体がとにかくうれしかったからだ、ということです。なので、たとえ打たれても、ランナーが出ても、それはそれで楽しかったそうです。
「打たれても楽しい」なんて言われてしまったら、相手にしてみればいったいどうやって長島投手を心理的に追い詰めたらいいのでしょうか?もはや無理な話です。
対照的に相手の安井投手はイライラしていたということですから、少なくとも心理面では長島さんが勝っていたわけです。
次も強豪と対戦。惜しくもサヨナラ負け
そして、米子東は準決勝で岐阜商業と対戦しました。今でいう県立岐阜商業です。今も昔も強豪ですね。鍛治舎巧、高木守道、英智、和田一浩など多くのプロ選手、関係者を輩出しています。
特にこの時の岐阜商業は王貞治擁する早稲田実業に勝って準決勝に来ていることなども見ても、かなりの強豪であったことはわかります。
当日、甲子園球場はキャパを超える大観衆で、7万人が入ったそうです。米子東も岐阜商業も同じ9安打という拮抗した戦いを演じ、最後はサヨナラで米子東が負けました(1-2)。
当然ながら、長島選手のサイドストーリー(19歳であること、戦後の逃避行の悲劇)などはもう、全国に知れ渡っていますから、そういった興味本位で注目した人も大勢いたでしょう。しかし、そういったストーリーだけで語られて終わるのではなく、実際に長島選手は地力を見せたわけです。
もし当時、僕が生まれていてこの試合を見ていたら、やはり感動するでしょうね。
選手たちが米子に帰ったときの騒ぎはものすごかったそうです。それは、冒頭でもご紹介したこの画像を見れば明らかです。
(長島康夫著「19歳の甲子園」より引用)
鳥取県は、本来、あまりイベントが盛り上がらない県なんですが・・・それなのにこの人数です・・・すごいですね。
再び鳥取の野球にこういう盛り上がりが来てほしいものです。
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