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鳥飼です。
来春(2019年)の選抜出場が確実といわれている米子東(※)について、僕なりに思うことや、過去の米子東について調べてみたことなどを、しばらく書き続けてみたいと思っています。
今回は、1956年の夏の米子東についてです。
※…米子東の2019年選抜甲子園出場が正式に決定しました!!(2019年1月25日情報)
~~~ 目次 ~~~
1956年、米子東が夏の甲子園でベスト4に入る。
1956年、米子東は夏の甲子園大会でベスト4に入りました。
鳥取県勢は、夏の甲子園で「2勝以上」をしたのはこの時以来、ありません。62年間も、「夏の2勝」から遠ざかっていることになります。
なお、春の選抜はこの後も何度か、「2勝」の大会はあります。
余談ですが・・・
僕は、鳥取県勢が春の選抜は「そこそこ」の成績を残せているのに対して、夏の選手権は絶望的に成績がよくないのには、「いくつかの理由」があると考えています。それについては、前回の記事で触れました。後の記事でももう少し掘り下げて書く予定です。
1956年夏の米子東のエース、長島康夫投手は、甲子園で「ヒーロー」になった。
で、この1956年夏の米子東のエースが、「長島康夫」という投手です。高校野球ファンにとって、1956年の夏の大会は、この人の印象が強かったようですね。
僕はリアルタイムでは知りませんが、まわりの野球好きの大人からウワサは聞いていました。「かつて、”長島”というすごい投手がいた」と。
調べてみると、長島投手が甲子園で「ヒーロー」だと認識された理由はいろいろありますが、だいたい、以下の4つの点にまとめられます。
- 一年遅れで就学したため、19歳で甲子園に出場したという物珍しさ
- 就学が遅れた理由が、終戦のドタバタによるものだったこと
- 長島康夫投手の実力の高さ
- 長島康夫投手のさわやかな立ち振る舞い
ですね。ものすごく簡単に言うと、
「19歳で出場している選手がいる」という物珍しさから人々が注目した → 実際の試合を見てみるとその実力の高さに驚いた → さらにインタビュー等での受け答えがさわやかだった → 一気にファンが増えた
といったところでしょう。
もし「それはちょっと違う」というご意見がありましたら、コメント欄かツイッターにて情報提供いただけたら、と思います。
今は、19歳でも甲子園に出ることはできる。
なお、今は許可があれば19歳でも甲子園に出ることはできます。たとえば、中学浪人して高校に入学した場合ですね。
ダメなのは、他の高校の野球部に入ったものの、中退して一年生からやり直した場合です。この場合は18歳までしか出場できません。ちょうど、2006年の倉吉北の2年生エース・森本卓也選手がそうでしたね。
森本卓也投手は、2006年の夏の甲子園の初戦(vs松代・長野代表)で敗北した後、号泣していました。ネットの書き込みでは、「2年生は来年があるから、泣くことはない。来年も期待しているぞ!」というものもありました。
が、実は森本投手にとっては最後の夏だったわけです。だからあれだけ泣いたんですね。
あと、中学浪人で19歳で出場したケースは、僕の記憶だと1986年に夏の甲子園に出た米子東のセカンドの選手がそうだったような気がします(記憶があいまいのため、間違っていたらご指摘お願いします)。
鳥取県は、「中学浪人」する人が普通にいる
ちなみに他県の人には信じられないかもしれませんが、鳥取県は、「中学浪人」する人が普通にいます。特に、僕が高校生だったころは多かった印象です。今は少なくなりましたが、それでもまだ、いますね。
その理由は、
- 鳥取県に、私立高校が充実していないこと
- 県立高の個性がすごく強いこと
があげられます。つまり、「特定の県立高」に憧れを持つ中学生が、中学浪人してまで受験し直そうとするわけですね。
鳥取県は他県に比べて、各高校の個性が強いです。
米子東の場合は、「文武両道」という個性です。大学進学は米子市で一番の実績がありますし、高校生クイズでは優勝、準優勝もしています。野球部は甲子園(春)で準優勝していますし、サッカー部はベスト8の実績があります。
他県の人にはなかなかわからないでしょうが、まあ、米子東というのは、鳥取県内ではちょっとしたブランド力がある高校なのです。
長島康夫投手の甲子園までの経歴
さて、僕は今回、この記事を書くにあたって、長島康夫投手についていろいろと調べてみました。すると、やはり長島投手は、1956年の夏の甲子園に花を添えるにふさわしい人物であったことがつかめてきました。
それには、当時の報道の仕方もあったでしょう。今以上に、情緒的な書き方が許される時代でしたからね。それに、1956年という年は、「もはや戦後ではない」というひとつの象徴的な言葉が日本中を踊った年でもあります。
1956年の流行語「もはや戦後ではない」
これは、高校で政治経済を選択していた人なら、教科書に太字で書かれていることなのでよく知っていることでしょう。
「もはや戦後ではない」――有名な、1956年の経済白書の一文です。
つまり、1945年に終戦し、1951年にサンフランシスコ平和条約が結ばれて日本は主権を回復しました。そして、1955年には年平均10%の経済成長がはじまり、1956年には国際連合に加盟しました。
1956年というのはまさにそういう時期だったわけです。
「これから日本はよくなっていく。頑張っていこう!」という空気の裏側には、「戦後の焼け野原から這い上がってきた」という意地も日本国民にあったのでしょう。
そう考えた場合、長島投手はまさにその象徴なわけです。なぜなら、
- 甲子園で快投しているという、「現在の活躍」
- 戦後のドタバタに巻き込まれて就学が遅れたという、「過去の苦労」
の二つがあったわけですから。そういったところが、人々の心をとらえたんでしょうね。
次の記事からは、長島康夫投手の活躍についての、具体的な内容に入っていきます。
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